プロフィール

藤田 幸久

オックスフォード大学 政治国際問題学部客員研究フェロー

元財務副大臣、元衆議院議員、元参議院議員

国際IC日本協会会長

東アジア共同体研究所特別研究員

ドイツ東南アジア公共政策・良き統治センター(CPG)専門理事

岐阜女子大学特別客員教授

旭日重光章受章

写真でみる藤田幸久の軌跡

1950

茨城県日立市に生まれる。

父との写真
父との写真
誕生直後、日立の社宅で(後列左から)母彰子、幸久、父浩蔵、姉誠子、(前列左から)兄豊久、姉典子、兄昭男
誕生直後、日立の社宅で
(後列左から)母彰子、幸久、父浩蔵、姉誠子
(前列左から)兄豊久、姉典子、兄昭男

1951

父、藤田浩蔵(こうぞう) 日立製作所の推薦で日立市議にトップ当選。以降3期務める。

1951年 日立市議初挑戦でトップ当選
1951年 日立市議初挑戦でトップ当選
当選時の事務所内
当選時の事務所内
1956年 日立市庁舎 竣工式典
1956年 日立市庁舎 竣工式典
1956年 日立市役所完成(前列左から2人目が藤田浩蔵
1956年 日立市役所完成
(前列左から2人目が藤田浩蔵)

1957

日立市二葉幼稚園卒園

二葉幼稚園クリスマス会でイエス役
二葉幼稚園クリスマス会でイエス役

1963

日立市立会瀬小学校卒業

会瀬小学校時代
会瀬小学校時代
下手なバイオリン弾き
下手なバイオリン弾き
修学旅行で皇居に最後列中央、右端は沼田誉一先生
修学旅行で皇居に
最後列中央、右端は沼田誉一先生

1969

茨城県立水戸一高卒業

1975

慶応大学文学部哲学科卒業。

卒業後、MRA国際親善使節「ソング・オブ・アジア」(Song of Asia)に参加、2年間にわたりアジア・大洋州の青年約50人と約100の家庭にホームステイをしながら世界14カ国を歴訪。これまでに世界53カ国を訪問し、各国約200軒の家庭でホームステイ。

「Song of Asia」のキャスト 後列右から3人目が藤田
「Song of Asia」のキャスト
最後列右から3人目が藤田
アジアの歌声「Song of Asia」の舞台にて
アジアの歌声「Song of Asia」の舞台にて
1975年9月16日 パプアニューギニアの独立をパプアニューギニアの人 と祝う(デンマーク)
1975年9月16日 パプアニューギニアの独立をパプアニューギニアの人 と祝う(デンマーク)
「Song of Asia」では紋付き羽織袴も自分で着こなして舞台に立った
「Song of Asia」では紋付き羽織袴も自分で着こなして舞台に立った
1975年 イギリスでのクリスマス。日本人は全員和服で
1975年 イギリスでのクリスマス
日本人は全員和服で
1975年 スイス・コーの国際会議場では出席者が料理・皿洗いなどを行う
1975年 スイス・コーの国際会議場では出席者が料理・皿洗いなどを行う
1975年 デンマーク訪問ニュージーランドの先住民マオリ族のジミー・ウッドと
1975年 デンマーク訪問ニュージーランドの先住民マオリ族のジミー・ウッドと

1976

1976年 強風のノルウェー沖で左はベトナム難民のフォンさん
1976年 強風のノルウェー沖で左はベトナム難民のフォンさん
1976年 「Song of Asia」の日中間の和解のシーンで日本人医師を演じる藤田
1976年 「Song of Asia」の日中間の和解のシーンで日本人医師を演じる藤田
1976年 「Song of Asia」でカナダ訪問
1976年 「Song of Asia」でカナダ訪問
カルガリー空港でカナダ・インディアンの酋長達の出迎えを受ける
カルガリー空港でカナダ・インディアンの酋長達の出迎えを受ける
1976年 カナダの国会議事堂前で踊る「Song of Asia」
1976年 カナダの国会議事堂前で踊る「Song of Asia」
1976年 カナダ・インディアン居留地の山火事にて消火活動に参加
1976年 カナダ・インディアン居留地の山火事にて消火活動に参加
カナダ・インディアンの酋長を東京に迎える私の左は母彰子
カナダ・インディアンの酋長を東京に迎える私の左は母彰子

1977

1977年 ニュージーランドの先住民マオリ族の女王の前で マオリ族の踊りを披露する「Song of Asia」
1977年 ニュージーランドの先住民マオリ族の女王の前で マオリ族の踊りを披露する「Song of Asia」
マオリ族の踊りを披露する「Song of Asia」
マオリ族の踊りを披露する「Song of Asia」


帰国後、国際MRA日本協会事務局勤務

スイス・コーのMRA国際会議場
スイス・コーのMRA国際会議場

スイスのジュネーブから車で1時間半、レマン湖を見おろす村コー(Caux)に、MRA世界会議場「マウンテンハウス」があります。1902年に豪華なホテルとして建てられましたが、第二次大戦中は避難民の収容所として使われ荒れ果ててしまいました。
戦後間もなく「戦禍をまぬがれたスイスは、分裂したヨーロッパと世界に融和をもたらす場を提供すべきである」と考えたスイスの百ほどの家族がこのホテルを買い取り修復しました。戦後の1946年~1950年までに各界を代表する約4千人のドイツ人と約2千人のフランス人を迎え、戦後の独仏和解への第一歩が印されました。1950年には広島、長崎両市長、石坂泰三東芝社長他の経済人、労働組合代表、中曽根康弘氏などの国会議員からなる72名の日本人もコーに招かれました。1951年のサンフランシスコ講和条約に先立ち、日本が国際社会に迎え入れられる契機となりました。
毎夏国際会議が開催され、世界中から多くの人々が参加します。特に地域紛争の当事者、労使代表、貿易戦争下の経営者などの間の和解に貢献してきました。近年は、ウクライナ、ロシア、パレスチナ、イスラエルからも参加しています。また、民主主義やSDGsを支えるIDGsなどの会議も開催されています。

コーには、対立するグループ同士の間で、相手の立場になって物事を考えることができる環境があります。

1977年 MRA国際会議で(スイス・コー)
1977年 MRA国際会議で(スイス・コー)
1977年 ニュージーランドのマオリ族の友人と
1977年 ニュージーランドのマオリ族の友人と
1977年 ニュージーランド国会議事堂前でカナダのインディアン・ニュージーランドのマオリ族、パプアニューギニア、マレーシア、スウェーデンの友人達と
1977年 ニュージーランド国会議事堂前でカナダのインディアン・ニュージーランドのマオリ族、パプアニューギニア、マレーシア、スウェーデンの友人達と
母、藤田彰子も1979年から1年間オーストラリアでMRAのボランティア活動に参加した
母、藤田彰子も1979年から1年間オーストラリアでMRAのボランティア活動に参加した
MRAのボランティア活動にて
MRAのボランティア活動にて

1979

難民を助ける会(AAR、相馬雪香会長)の創設に加わる。その後常任理事

創設者の相馬雪香会長(尾崎行雄三女)
創設者の相馬雪香会長(尾崎行雄三女)

1980

タイ・カンボジア国境地帯でのカンボジア難民支援プロジェクトを立ち上げ。後にAARはカンボジア国内でも様々なプロジェクトを担い、今日まで世界各地でのプロジェクトを担っている。

1980年代前半 カンボジア難民に援助物資を届ける
1980年代前半 カンボジア難民に援助物資を届ける
1980年 カンボジア民主連合政府ソン・サン首相と土光敏夫国際MRA日本協会会長(経団連会長)との通訳を務める
1980年 カンボジア民主連合政府ソン・サン首相と土光敏夫国際MRA日本協会会長(経団連会長)との通訳を務める

1984

国際MRA日本協会(後に国際IC日本協会)を社団法人化して、専務理事に就任 歌手森進一さんの要請で、ザンビアでAARアフリカ難民支援プロジェクトを立ち上げ。このチャリティーコンサート「応演歌」は20年間続いた。

1984年 オランダのフィリップス電器のフィリップス会長の通訳する。その左は土光敏夫経団連会長、ソン・サン カンボジア民主連合政府首相
1984年 オランダのフィリップス電器のフィリップス会長の通訳する。その左は土光敏夫経団連会長、ソン・サン カンボジア民主連合政府首相
1984年 ラオス難民に援助物資を届ける
1984年 ラオス難民に援助物資を届ける
1984年 アフリカのザンビアで歌手の森進一さんのチャリティー・コンサート「じゃがいもの会」の井戸掘プロジェクトを立ち上げる
1984年 アフリカのザンビアで歌手の森進一さんのチャリティー・コンサート「じゃがいもの会」の井戸掘プロジェクトを立ち上げる
現地での活動の様子
現地での活動の様子
1984年 ザンビア内務省シムンバ難民局長に支援を要請
1984年 ザンビア内務省シムンバ難民局長に支援を要請

1986

コー日米欧経済人円卓会議(Caux Round Table, CRT)コーディネーター。
藤田幸久は、オランダのフィリップス社フレデリック・フィリップス元会長の要請に基づき、日本の欧米に対する電気製品などのいわゆる集中豪雨的輸出による、貿易戦争回避のために日米欧の経済人によるコー円卓会議(CRT)の創設に関わる。ヨーロッパからオリビエ・ジスカールデスタン(ヨーロッパ経営大学院副理事長)、アメリカからオーウェン・バトラー(P&G会長)、ウィンストン・ウオーレン(メドトロニック会長)、日本から賀来龍三郎キヤノン社長、山下俊彦松下電器相談役などが参加。CRTは1986年以来活動を続け今日に至る。1994年には「企業の行動指針」(Principles for Business)をまとめた。
英国のファイナンシャル・タイムズは「日米欧の経営者共同による初の行動規範」と評価した。

日産自動車石原俊社長とフランスのジスカールデスタン氏
デビット・ロックフェラー会長とキヤノン賀来龍三郎社長
(左から)山下俊彦松下電器相談役、藤田玲子、賀来龍三郎キヤノン会長、奈良久爾三菱総研会長

1988

初めて解放されたソ連のウラジオストックを訪問(左から)TBS河本記者(一人おいて)防衛省本部長、朝日新聞田岡記者
初めて解放されたソ連のウラジオストックを訪問(左から)TBS河本記者(一人おいて)防衛省本部長、朝日新聞田岡記者

1989

1989年 カンボジア身障者難民に日本の身障者からの車いす200台を届ける
1989年 カンボジア身障者難民に日本の身障者からの車いす200台を届ける
カンボジアの解放闘争を戦うクメール人民民族解放戦線(KPNLF)の兵士たちと
カンボジアの解放闘争を戦うクメール人民民族解放戦線(KPNLF)の兵士たちと
カンボジア難民キャンプで仏僧と共に教育支援活動を行う
カンボジア難民キャンプで仏僧と共に教育支援活動を行う
難民を助ける会相馬雪香会長(左から3人目)、ソン・サン カンボジア首相夫妻(中央)
難民を助ける会相馬雪香会長(左から3人目)、ソン・サン カンボジア首相夫妻(中央)

1990

1990年 ポーランドのウッジ市の市長宅にホームステイ
1990年 ポーランドのウッジ市の市長宅にホームステイ
反体制派「連帯」の活動が活発で脱共産主義化の戦いが進んでいた
反体制派「連帯」の活動が活発で脱共産主義化の戦いが進んでいた
1990年 アフリカ国民会議(ANC)のネルソン・マンデラ議長(後の南アフリカ大統領)と連合山岸議長との通訳を務める
1990年 アフリカ国民会議(ANC)のネルソン・マンデラ議長(後の南アフリカ大統領)と連合山岸議長との通訳を務める

1991

1991年 1986年の人民革命の立役者フィリピンのシン枢機卿と
1991年 1986年の人民革命の立役者フィリピンのシン枢機卿と
1991年 チベットのダライ・ラマ14世と単独会見(インド・ダラムサラ)
1991年 チベットのダライ・ラマ14世と単独会見(インド・ダラムサラ)

1992

1992年 カンボジアのシアヌーク殿下に謁見
1992年 カンボジアのシアヌーク殿下に謁見

1993

1993年 キプロスの首都ニコシアは中心部を国連が壁を築き、ギリシア系とトルコ系住民が分断されている
1993年 キプロスの首都ニコシアは中心部を国連が壁を築き、ギリシア系とトルコ系住民が分断されている
1993年 内戦の傷跡生々しいレバノン
1993年 内戦の傷跡生々しいレバノン
1993年 レバノン内戦のキリスト教徒とイスラム教徒の和解活動を行う
1993年 レバノン内戦のキリスト教徒とイスラム教徒の和解活動を行う
1993年 自衛隊初の海外派遣となるカンボジアPKO部隊の到着を迎える
1993年 自衛隊初の海外派遣となるカンボジアPKO部隊の到着を迎える

1994

1994年 スイスのMRA会議でカンボジアのシリウッド元外相(右から2人目)と一緒に皿洗い
1994年 スイスのMRA会議でカンボジアのシリウッド元外相(右から2人目)と一緒に皿洗い

1995

1995年 タンザニアで難民を助ける会のルワンダ難民支援の井戸掘プロジェクト視察
1995年 タンザニアで難民を助ける会のルワンダ難民支援の井戸掘プロジェクト視察
井戸掘プロジェクトの現場
井戸掘プロジェクトの現場
1995年 タンザニア内務省事務次官マリキ氏と会談する
1995年 タンザニア内務省事務次官マリキ氏と会談する

1996

1996年 シンポジウム「和解への課題」を主宰(左から)コーネリオ・ソマルガ国際赤十字総裁、ダグ・ジョンストン戦略国際問題研究所(CSIS)副所長、藤田幸久、星野進保総合研究開発機構(NIRA)理事長(スイス・コー)
1996年 シンポジウム「和解への課題」を主宰(左から)コーネリオ・ソマルガ国際赤十字総裁、ダグ・ジョンストン戦略国際問題研究所(CSIS)副所長、藤田幸久、星野進保総合研究開発機構(NIRA)理事長(スイス・コー)

衆議院東京比例区初当選(民主党)「対人地雷全面禁止推進議員連盟」を創設して、小渕恵三外相らとともに、日本のオタワ条約調印を実現(1997年)。民主党代表団(鳩山由紀夫代表)の中国訪問(胡錦涛副主席他と会談)、韓国訪問(金泳三大統領、金大中党首、金鍾泌党首他と会談)、米国訪問(モンデール元副大統領、エズラ・ボーゲル教授他と会談)の企画及び随行を行う。サポート校の不登校生徒の通学定期支給を実現。

1996年 ワゴン車を自ら運転し国会に初登庁
1996年 ワゴン車を自ら運転し国会に初登庁
国会議事堂前を走るワゴン車
国会議事堂前を走るワゴン車
1996年 中国残留孤児養父母(左から3人目)を慰問に訪れる民主党結党後初の海外訪問団(前列左から)鳩山夫人、海江田万里、大畠章宏(後列左から)鳩山由紀夫、岡崎トミ子、山花貞夫、藤田、生方行夫(中国・大蓮)
1996年 中国残留孤児養父母(左から3人目)を慰問に訪れる民主党結党後初の海外訪問団(前列左から)鳩山夫人、海江田万里、大畠章宏(後列左から)鳩山由紀夫、岡崎トミ子、山花貞夫、藤田、生方行夫(中国・大蓮)

1997

1997年 インド・ナラヤン大統領夫妻(中央)と(右から)藤田、鳩山由紀夫、ラジモハン・ガンジー元上院議員(マハトマ・ガンジーの孫)(インド・デリー)
1997年 インド・ナラヤン大統領夫妻(中央)と(右から)藤田、鳩山由紀夫、ラジモハン・ガンジー元上院議員(マハトマ・ガンジーの孫)(インド・デリー)
1997年 ノーベル平和賞受賞の「地雷禁止国際キャンペーン」のチャナリットさんと小渕恵三外相に申し入れ。私の右が中谷元防衛大臣、左が小坂憲次元文部科学大臣
1997年 ノーベル平和賞受賞の「地雷禁止国際キャンペーン」のチャナリットさんと小渕恵三外相に申し入れ。私の右が中谷元防衛大臣、左が小坂憲次元文部科学大臣
1997年 森進一さん(左)、国連アナン事務総長(右)と
1997年 森進一さん(左)、国連アナン事務総長(右)と

1999

NATO空爆後のコソボを視察。隣国のマケドニアに民主党事務所を開設。ボランティアが半年間コソボの人道援助活動を行う。日本の政党による初の海外拠点からの援助活動。

1999年 藤田幸久後援会主催のコンサート(王子の北とぴあ)で、森進一さんと
1999年 藤田幸久後援会主催のコンサート(王子の北とぴあ)で、森進一さんと

2000

2000年 国会議員サッカーチームで西ヶ丘サッカー場にて
2000年 国会議員サッカーチームで西ヶ丘サッカー場にて

2001

岐阜女子大学特別客員教授就任

2002

911後の米軍のアフガニスタン空爆後、首都カブールに民主党事務所を開設。半年間スタッフが人道援助活動を行う。藤田幸久がその閉鎖を行う

2002年 アフガニスタンのカルザイ大統領と
2002年 アフガニスタンのカルザイ大統領と

2003

衆議院東京比例区 (東京12区 )当選、民主党国際局長

2003年 「アフリカに毛布を送る運動」に感謝を述べる駐日モザンビーク大使(左)と黒河内康元駐ナイジェリア大使(右)(東京・飛鳥山にて)
2003年 「アフリカに毛布を送る運動」に感謝を述べる駐日モザンビーク大使(左)と黒河内康元駐ナイジェリア大使(右)(東京・飛鳥山にて)

2004

イラク邦人人質事件で隣国ヨルダンにて人質救出支援活動を行う。5人の日本人が解放される。民主党代表団 (菅直人代表 )の欧米訪問 (国連アナン事務総長、スウェーデンのパーション首相他と会談 )、同 (岡田克也代表 )の訪米 (グリーンスパン連邦準備制度理事会 (FRB)議長、アーミテージ国務副長官他と会談 )の企画及び随行を行う。

2004年4月 イラクでの日本人人質事件の救出支援活動でヨルダン訪問、キーラーニ元宗教大臣の支援を頂く
2004年4月 イラクでの日本人人質事件の救出支援活動でヨルダン訪問、キーラーニ元宗教大臣の支援を頂く
2004年4月 イラクでの日本人人質事件の救出支援活動でヨルダンのズフディ・アブサドラザット・アルハッサン内務大臣の支援を頂く
2004年4月 イラクでの日本人人質事件の救出支援活動でヨルダンのズフディ・アブサドラザット・アルハッサン内務大臣の支援を頂く
2004年4月 ヨルダンより帰国した翌日、フジテレビ「報道2001」に緊急出演、竹村健一氏に救出活動を語る。 左端は大野元裕現参議院議員、右端は黒岩祐治キャスター(現神奈川県知事)
2004年4月 ヨルダンより帰国した翌日、フジテレビ「報道2001」に緊急出演、竹村健一氏に救出活動を語る。 左端は大野元裕現参議院議員、右端は黒岩祐治キャスター(現神奈川県知事)
2004年7月 日本人人質解放の立役者、イラクのイスラム聖職者協会のアル・クベイシ師と(国会内で)
2004年7月 日本人人質解放の立役者、イラクのイスラム聖職者協会のアル・クベイシ師と(国会内で)
2004年 アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)グリーンスパン議長(中央)と(左から)長島昭久、藤田、岡田克也、大塚耕平各議員
2004年 アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)グリーンスパン議長(中央)と(左から)長島昭久、藤田、岡田克也、大塚耕平各議員
2004年 北京の第3回アジア政党国際会議でカンボジアのラナリット殿下(左)、フン・セン首相(右)
2004年 北京の第3回アジア政党国際会議でカンボジアのラナリット殿下(左)、フン・セン首相(右)

2005

スマトラ沖津波・地震 (2004年12月 )の被災地インドネシアとスリランカへの調査団 (鳩山由紀夫団長 )で支援活動を行う。帰国後、遺体確認にDNAや歯形照合などの手法を導入するよう政府に提言。パキスタン地震の調査団 (若林秀樹団長 )で支援活動を行う。帰国後、日本の緊急援助隊がチャ―ター機を使用して現地入りを早める提言を官房長官に行う。

2005年 インドネシアのユドヨノ大統領とスマトラ沖津波支援を協議。私の右が岡田克也代表
2005年 インドネシアのユドヨノ大統領とスマトラ沖津波支援を協議。私の右が岡田克也代表

2006

ジャワ島地震の調査団 (末松義則団長 )で支援活動を行う。聖学院大学非常勤講師就任 (2009年まで )

2007

参議院茨城選挙区初当選

2007年 時代劇『高杉晋作』で、5人の国会議員と熱演(藤田は坂本龍馬役)右に大村秀章愛知県知事、河村たかし名古屋市長、原口一博議員
2007年 時代劇『高杉晋作』で、5人の国会議員と熱演(藤田は坂本龍馬役)右に大村秀章愛知県知事、河村たかし名古屋市長、原口一博議員

2008

参議院北朝鮮拉致問題等特別委員長

2008年 参議院調査団でフィジーとツバル訪問、ツバルの海面上昇という事実は正確でないことを発見した
2008年 参議院調査団でフィジーとツバル訪問、ツバルの海面上昇という事実は正確でないことを発見した
2008年 ツバルのアピサイ・イエレミア首相と
2008年 ツバルのアピサイ・イエレミア首相と
2008年 フィジーのライセニア・ガラセ前首相と
2008年 フィジーのライセニア・ガラセ前首相と

2009

民主党政権誕生後に、民主党国際局長第二次世界大戦の米軍元捕虜 (POW )の日本招聘を実現。第二次世界大戦での日本軍による元捕虜 (POW )のうち、英国、オランダ、オーストラリアの元捕虜を日本政府は日本に招聘していたが、アメリカの元捕虜だけは日本企業に対する賠償訴訟を起こしたという理由で招聘されていなかった。藤田幸久は国際MRA推進議員連盟(谷川和穂会長)で米軍の元捕虜のレスター・テニー氏と会談したことから同議員連盟の自民党議員とともに外務省に要請し、2009年から米軍の元捕虜の日本訪問事業が毎年行われている

2009年 参議院拉致問題特別委員長として拉致被害者曽我ひとみさんを激励に(佐渡島)
2009年 参議院拉致問題特別委員長として拉致被害者曽我ひとみさんを激励に(佐渡島)
2009年 常磐大学シンポジウム「被害者学と人間の安全」レセプション
2009年 常磐大学シンポジウム「被害者学と人間の安全」レセプション
2009年 中国胡錦濤国家主席と(人民大会堂で)
2009年 中国胡錦濤国家主席と(人民大会堂で)

2010

ハイチ大地震調査団長として、現地で支援活動。帰国後、現地の大使館と連絡不能などの緊急事態では、緊急援助隊の見切り発車の派遣も必要との提言を政府に行う。参議院財政金融委員長 日本医師会と財務省幹部との直接の情報交換の場を創設

2010年 『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』に出演
2010年 『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』に出演
2010年 ハイチ大地震支援団団長としてハイチを訪問(ハイチ議会)
2010年 ハイチ大地震支援団団長としてハイチを訪問(ハイチ議会)
プレヴァル大統領
プレヴァル大統領
2010年 ウラジオストック国際会議
2010年 ウラジオストック国際会議
ひたちなか市の人々が建てたウラジオストックの日本人墓地を訪問
ひたちなか市の人々が建てたウラジオストックの日本人墓地を訪問
2010年 中国漁船衝突事件後の尖閣諸島視察、私の右に原口一博、河合克行、柿沢未途議員
2010年 中国漁船衝突事件後の尖閣諸島視察、私の右に原口一博、河合克行、柿沢未途議員

2011

財務副大臣 国家公務員宿舎を四分の一減らし、家賃を値上げする抜本的な改革を実現。東日本大震災の復興予算を策定。医療予算・介護予算を10年ぶりに増額 日本銀行政策決定会合で、東日本大震災後の復興とギリシャを始めとする欧州金融危機を踏まえた大幅な金融緩和を要請

2011年 津波で大きな被害を受けた北茨城市大津漁港を視察
2011年 津波で大きな被害を受けた北茨城市大津漁港を視察
細川厚生労働大臣と鹿野農林水産大臣に対する茨城県橋本昌知事の要望活動の会談をセットし、同行しました
細川厚生労働大臣と鹿野農林水産大臣に対する茨城県橋本昌知事の要望活動の会談をセットし、同行しました
人の背丈ほどの段差が生じた鹿嶋市の港公園
人の背丈ほどの段差が生じた鹿嶋市の港公園
民主党の岡田克也幹事長を初めとする民主党の調査団が茨城県の大震災の被害状況の視察と関係者の要望聞き取りのために来県
民主党の岡田克也幹事長を初めとする民主党の調査団が茨城県の大震災の被害状況の視察と関係者の要望聞き取りのために来県
参議院財政金融委員長として茨城県の被災企業金融支援緊急対策会議で挨拶
参議院財政金融委員長として茨城県の被災企業金融支援緊急対策会議で挨拶
2011年 日本銀行政策決定会合に出席<br>(中央が白川方明総裁)
2011年 日本銀行政策決定会合に出席
(中央が白川方明総裁)

2012

参議院財政金融委員長、裁判官弾劾裁判所裁判委員

2012年 子ども霞が関デーで財務副大臣室で子供たちと
2012年 子ども霞が関デーで財務副大臣室で子供たちと
2012年 つくば竜巻被害予算を決定。左が市原つくば市長
2012年 つくば竜巻被害予算を決定。左が市原つくば市長
2012年 横綱白鵬と震災復興の個人向け国債をPR(財務大臣室で)
2012年 横綱白鵬と震災復興の個人向け国債をPR(財務大臣室で)

2013

参議院茨城選挙区再選 参議院国家基本政策委員長、参議院財政金融委員長
21世紀教育研究所理事 (2019年まで )

フィンランドのオンカロを視察

2013年 フィンランドのオンカロを視察。世界唯一の核廃棄物最終処分施設(地下420m)
2013年 フィンランドのオンカロを視察。世界唯一の核廃棄物最終処分施設(地下420m)

2014

厚生労働委員会で前年に削減された産婦人科帝王切開手術料の診療報酬の引き上げを提案し、2016年の改定で引き上げが実現。
手術の時間が短縮されたので点数も下げたという理由であったが、母と子の二人の命を預かる産婦人科医が、手術の時間を短くしてリスクを下げようとことを評価すべきと主張したことが、引き上げにつながった。

塩崎恭久厚労大臣に要請
塩崎恭久厚労大臣に要請

ベトナムのチュオン・タン・サン国家主席を迎える

2014年 ベトナムのチュオン・タン・サン国家主席を迎える(水戸市で)
2014年 ベトナムのチュオン・タン・サン国家主席を迎える(水戸市で)

2015

横浜国立大学非常勤講師 (2014から2016年まで)
横浜国立大学で、週一回英語で講義。帰国子女、留学経験者など日本人学生20人ほどと外国人留学生数名です。世界の様々な問題と、それに対する取り組み、国際経験などを講義。国家見学にも招いた。

受講生たちによる国会見学
受講生たちによる国会見学
横浜国立大学にて講義の様子
横浜国立大学にて講義の様子

アジア政党会議に出席

中国の習近平国家主席と会談 アジア政党会議にて
中国の習近平国家主席と会談 アジア政党会議にて

2016

民進党結党 民進党国際局長。人為的な株高政策により、中小同族企業株の時価が吊り上がり、社長の死去により企業存続ができない企業が続出。藤田幸久が財務省や中小企業庁に株の時価を吊り上げない評価の見直しを要請して2017年に実現。2018年には相続税の5年間の猶予制度が始まり、事業承継が大きく前進。

開業医の持ち分あり医療法人が持ち分なし医療法人に移行する際の贈与税が承継の障害となっていたため、藤田幸久が財務省や厚労省に非課税化を要請して2017年に実現 この二つは財務省主税局が国税庁に対して「事業承継の円滑化による企業や開業医の存続が安定税収につながる」と説得して実現。

宮本中小企業庁庁官(左)に要請
宮本中小企業庁庁官(左)に要請

2017

民進党ネクスト外務大臣
国際IC日本協会理事

2018

国民民主党結党 国民民主党国際局長
茨城県倫理法人会顧問 (2019年まで )

2019

立憲民主党入党 7月の参議院選挙で全国区に回り落選

2020

日本医師会中川俊男会長に日本総合研究所寺島実郎会長を紹介し、医療・防災産業の基盤産業化を支援。その後日本歯科医師会、日本土木学会なども加わり、ワクチンや医薬品も含めた医療資器材 (マスク、検査機器 )の国産化や「道の駅」を防災器材の緊急備蓄・供給を行う防災拠点とする政策を推進

2021

衆議院選挙で茨城2区から出馬するが落選
政界引退

鹿島神宮前にて演説
鹿島神宮前にて演説

2022

タイのGerman-Southeast Asian Center of Excellence for Public Policy and Good Governance(CPG、ドイツ外務省のシンクタンク)専門理事に就任。
国際会議「紛争の将来とアジアにおける紛争解決」で講演。

「紛争の将来とアジアにおける紛争解決」で講演
「紛争の将来とアジアにおける紛争解決」で講演

2023

広島G7サミット前に岸田総理に「過ちは繰り返しませぬから」という原爆記念碑の碑文誕生の経緯を説明。1950年に浜井信三市長が今のG7諸国を歴訪し、スイスのMRA(現IC)の国際会議で独仏の和解の現場を見、米国のアーリントン墓地などを訪問した経緯を紹介。
また「過ち」の英訳evilよりもmistakeの方が原文に即していることを提案。結果的にmistakeと訳されたとされる。

2024

WCRP第2回東京平和円卓会議「戦争を越え、和解へ」をWCRP国際活動支援議員懇談会及び国際IC日本協会として後援。ウクライナ、ロシア、パレスチナ、イスラエルなどのパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への財政支援再開にも貢献。

カンボジアでThe Asian Network主催の国際会議“Rethinking Harmony in Asia 2024”で講演。フン・マネット首相、サイ・サムオル副首相兼国土整備都市計画建設大臣、ソー・ソカー副首相兼内務大臣とも個別に会談。

国際IC日本協会会長として第46回IC国際フォーラム「分断の増す世界に、信頼と和解を」を主催。ガザの出身で親族70名以上が犠牲になったイマド・カラム国際IC本部専務理事、イスラエルとパレスチナの「二国解決案」を提唱しているアロン・リール元南アフリカ駐在イスラエル大使、李柱榮元韓国国会副議長、国際IC推進議員連盟中曽根弘文会長などが参加。

日本パブリックリレーションズ学会「失われた30年検証研究会」が提言「日本再生へのチャレンジ」を発表。そのシニアリサーチャーとして取りまとめにあたった。2年間で各界42名の有識者のヒアリングを行った。白川方明元日本銀行総裁、野田佳彦衆議院議員、石破茂衆議院議員などが含まれる

秋の叙勲で、旭日重光章を受章

2025

オックスフォード大学政治国際問題研究所客員研究フェロー就任

左は鈴木浩駐英大使